自由が丘・謎の神社

神社の再開発


何も考えずに通り過ぎていた鳥居があった。鳥居があるからには、神社であることに間違いはないと思うが。
それは自由が丘の駅前で、片方は時計と宝石の一誠堂、もう片方は揚まんじゅうの御門屋にはさまれた細い路地でした。
罰が当たりそうで撤去もできず、残っていたのはお稲荷さんの鳥居だったのです。

東横線が昭和3年に開通すると、商店も徐々に増え始め、縁日も開かれて活気を帯びてきた。これから街が発展しようという大事な時期に、念願かなって赤坂の豊川稲荷から分霊を許された。わずか4坪の神社ですが、自由が丘に商売繁盛の神様がやってきたのです。

と、ここまではよかったけれど、迫りくる大戦を前にして、十分な物資が手に入らなくなった。やがて大戦に突入。その後はご承知の通り、東京大空襲で自由が丘も焼け野原になった。当然お稲荷さんも焼けて、残ったのは鳥居でした。

その鳥居も2022年に始まった、自由が丘の再開発のあおりを受けて、移転を余儀なくされた。今は熊野神社の本殿横に移転をして、以前よりはよほど立派になった。正一位稲荷大明神という。
自由が丘の再開発の間、商店は方々に移転をした。再開発が終われば戻る店もある。家賃があまり高額だと戻らないだろう。

神様に家賃はかからないかもしれないが、新しいお稲荷さんの社殿を見れば、もう戻らないような気がする。

白山神社

 
もう一つは、自由が丘のかつての目抜き通りにある神社です。

自由が丘デパートとひかり街の間、すずかけ通りを等々力方面に向かって歩くと、八幡中学校の手前に小さな神社が現れます。ここまでくるとすずかけ通りではなく、八幡通りと言ったほうが正しいかもしれない。
こちらもうっかりすれば、通り過ぎてしまうほどのもの。右側に白山神社と記された石柱が見えて、見上げるような階段がある。
この階段を登りきったところに、小さな神社があるのです。ちゃんと手水舎もあって、立派な神社です。

落ち葉もなく掃除も行き届いているから、どなたか守って下さっているのでしょう。
戦時中はこの階段の下に防空壕があって、それなりの役を果たしたけど、参拝者がめったに顔を見せないのは、この階段のせいではないかと思う。

それはともかく、この神様はいったい誰か。自由が丘の史書を見ても、ひとこと「不詳」と記されているばかり。
長らく正体不明の神社だったけれど、最近、近所の方から思わぬ話を伺いました。これこそ口頭伝承の文化。
口頭なので、次の人に伝わる度に、内容は少しずつ変わる。
遠野物語の話売りだって、だんだん話をもって面白くなったではないか。

我が国に仏教が伝来して以降、神仏習合の風潮が続きました。神様と仏様が一緒になるわけだから、そこは辻褄の合わないこともあって、先人はご苦労をしたに違いない。
ところが江戸時代になると今度は神仏分離。無理やり結婚をさせられていたものが、今度は無理やりの離婚で問題が起こる。
白山神社の由来は、そのはざまで起きた出来事がきっかけでした。

ここから先は確たる出典もないので、見てきたような話になりますが。
時は後北条氏の時代です。当時、この地域では、後北条氏の傘下にいた世田谷城主、吉良家の全盛期で、栄華を極めておりました。
そんな中、吉良冶家の子祖朝(ちかともと読む)が10歳で早世してしまいます。子供の死を悲しんだ治家が、その菩提を弔うために建てたのが東光寺。
かつて東光寺と白山神社は一体でしたが、その後、神仏分離の流れに沿って、東光寺は今の都立大学駅近くに移転。
なぜか白山神社はここに留まったとのことです。

吉良一族が目黒、世田谷で権力をもった時代、九品仏の前身である奥沢城は、世田谷城の出城だったのです。
その奥沢城の常盤姫は世田谷城主、吉良頼康の側室となっておりました。寵愛を受けた常盤姫は子を身籠ったけど、これが周囲の嫉妬の的となります。不義の噂をたてられた常盤姫が、白鷺の足に一通の手紙をたくして、無念の自害を遂げた経緯は、以前記した通りです。  

   東光寺は今都立大学駅近くにある

しかし、吉良一族の栄華も長くは続きませんでした。小田原城に本拠を置く後北条氏は、上杉謙信の城攻めをしのぐほどの実力者でしたが、そんな小田原城もついに豊臣秀吉の小田原征伐によって、1590年に滅びることになります。
同時に世田谷城もなくなり、当然その出先である奥沢城も廃城となました。

こういう話ですが、奥沢城が亡くなってから一世紀弱、城跡が寺地となって、1678年珂碩上人が開山したのが九品仏浄真寺です。
黙って鳥居を通り過ぎてしまうより、常盤姫の無念や、お寺の引っ越しを想いながらの散歩も、結構楽しいものと思います。