戦場のセレナーデ

高齢の緑内障

Kさんがやってきた時は、すでに80歳になっていた。緑内障を患ってから何十年にもなるのだろう。すでに末期の状態で、日々の生活にも不便をしたに違いない。
それでもしっかりした足取りで、診察室に入ってきた。ただし、ご自身は何も話さない。今まで治療をしてもらっていた医院が閉じたことも、不自由な暮らし振りも、全部同行した娘さんから聞いた。

その娘さんの母親に対するぞんざいな話し方からは、余計に仲の良さが伺えた。
その後、Kさんはいつも二人でやってきた。診察の受け方も慣れたものだったけど、なぜか自分で話をしない。必要な情報は全て娘さんから聞いた。

1年ほどたったある日、Kさんは診察を終えると、いつもより嬉しそうな顔をして、紙袋を差し出した。シンガポールに行ってきたとのこと、そのお土産を頂いた。
今の視力では、風景も満足に見えないだろうし、第一高齢で海外旅行は大変だろうと思ったけど、お孫さんがシンガポールにいるから問題はない。

その後もきちんとした間隔で、Kさんは診療に訪れた。
そして、今度は台湾に行ってきた。パイナップルケーキを頂いた。
でもこれで終わりではない。その後も何回かでかけて、最後の海外旅行はKさんが88歳になった時。とびきりの笑顔を見せながら、台湾のお土産を下さった。

90歳を過ぎると、さすがに定期的な通院も途切れがちになって、特に夏の猛暑は歩いてくるだけでも一大事であったに違いない。最後に診察をしたのは94歳の時。十分とは言えないまでも、視力も視野も残っていたから、知り尽くした家の中では、何とか一人で暮らせたことだろう。

数か月が経って、娘さんが1人で訪れた。訃報だった。
元気に暮らしていたけれど心臓を患って緊急の入院。一連の処置をした結果、ようやく辛そうな症状も一段落をした。集中治療室の中でKさんの鼻歌がしばらく聞こえていたけれど、その声がふっと止んでしまった。お孫さんの到着は少し間に合わなかった。

そんな話を聞いた後に、きれいに製本された冊子を頂いた。簡素な作りだけどA4版にまとめられた冊子は、相当な分量があった。
それはKさんが長年書きためた日記などをまとめたもので、ご自身の生涯が記されていた。

戦場へ

幼いころに育った故郷の風景や家族のこと。幼少期に両親を失って、親戚の世話になりながら育ち、自活をする必要もあって看護学校に入学したことなど。しかし看護学校を卒業した時は昭和18年で、まさに太平洋戦争の真っ最中だった。

そのまま軍に召集されて、親族に見送られながら、病院船に乗り込んだ。どこに行くかわからないまま訪れたのは大連、台湾、上海、シンガポール、マニラ、秦皇島、パラオ、コロンボ、ラバウル。
病院船といえども潜水艦からの魚雷攻撃を避けるために、ジグザグ航行をしながらの航海だった。

ようやくパラオの穏やかな海を見たときには、夕陽の美しさに感動をしたけれど、横では結婚をしたばかりの妻を故郷に残してきた、若い兵士が泣いていた。
悪天候の際には、大きく揺れる船の上でも甲板を汚さぬよう、コレラや赤痢など伝染病患者の汚物を海に廃棄した。戦争につきものの若者の死や大怪我もいっぱい見た。もちろん自身の危険もあった。

怪我と伝染病と爆弾の中で3年が経った。しかし、悲惨な戦場の中にも、たまにはゆったりとした日々が訪れる。

長年、ともに戦えば親しみもわくようになって、女性たちは将校たちにニックネームをつけた。
大腿部の傷で入院した中尉は、色白で上品な風貌。貴公子と呼んだ。もう一人の士官は、その雰囲気からシューベルト。
そのシューベルトさんは「野ばら」や「ドナウ川のさざ波」を歌ってくれた。そして、一緒にシューベルトのセレナーデをハミングしたこともあった。

反対に男ばかりの軍隊のことだから、口には出せなくても、Kさんに思いを寄せる兵隊はたくさんいただろう。兵隊からはビーナスと呼ばれることもあった。
激しい爆撃の最中では「ビーナスと死ねるなら本望だよ」とも言われた。

ある兵隊はKさんにパナマ帽をプレゼントしうとして、街の中で探し歩いている間に、Kさんの乗った病院船が出港をしてしまった。
それでもランチに乗って大急ぎで病院船を追いかける兵隊を見て、なんと艦長は一旦動き出した船を止めた。
一度動き出した1万トン級の船を止めるのは大変なことで、艦長も兵隊たちの気持ちをよく理解していたものと思う。こうしてパナマ帽は無事Kさんに届けられた。

こんなこともあったけど、次第に悪化する戦況の中で、Kさんも極限の生活が続く。

ついにバンコクで終戦を迎え、捕虜として帰国をするまで1年の月日を、収容所と化した病院の中で過ごすことになった。
そんな中でも、現地の人々の心配りは嬉しかったし、危険を顧みず鉄条網越しに差し入れを届けてくれる、タイ女性の勇気には感動もした。

帰国

ようやく帰国をした後は、戦後の激動期を生きぬいて、今は娘と孫と3人の家族。平和な日々を過ごすようになって、墓参りや旅行にもでかけられるようになった。  

  

ここ10年余りは、お孫さんがシンガポールで勤務をするようになり、やがて勤務先は台湾に変わった。
Kさんから頂いた土産は、その台湾を訪ねて家族と楽しい数日を過ごした直後のものだった。

とびきりの笑顔の謎がようやくとけた。

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