海水浴三世代

千本松原

ようやく25メートルのプールを泳げるようになった頃、沼津に住む叔母を訪ねて、連れて行ってもらったのが千本松原の海水浴場。きれいな海だったけど、海岸はごつごつした丸石で、砂浜のような遊びはできない。
それに焼けた丸石はとても熱くて、海辺までは急いで走らなければならなかった。

叔母は海の家に入っても日傘をさしたままで、1回30円の浮輪を借りてくれた。
浮輪とは言っても古タイヤのチューブを膨らませたもので、見てくれは悪いが強力な浮力があった。

輪っかの中にお尻を突っ込んだり、海底の景色を眺めてみたり。じっとしていると、小魚が足元に寄ってきて、蚊に刺された跡のかさぶたをつつく。

夢中になって遊んでいたところ、何かの拍子でひっくり返ってしまった。あわてて海面に顔を出すと、浮輪は少し沖合にゆらゆらとゆれている。ほんの数メートル先に見えたので、つかまえようとしたけれど、強い海風を受けた浮輪は、どんどん沖に流される。

ずいぶん追いかけて、海の中を見ればもう海底が見えなくなったが、浮輪までの距離はなかなか縮まらない。
このまま頑張って追いつけばよし、もし逃したら、今来た距離を泳いで帰ることはできないかもしれない。監視員もいない時代の海水浴場で、逃げる浮輪を追うか諦めるか、重大な決意が必要だった。
たかが30円の浮輪だけど、弁償するといくらになるのかわからない。それも叔母が払うことになる。
そう思うと夢中になって追いかけた。ドキドキしたのは恐怖のためか、全力で泳いだためかわからない。
ようやく浮輪を捕まえたときには、振り返って涙越しに松原が見えた。

九十九里

しばらく海水浴から遠ざかっていたけれど、古い海水パンツを買い変えたのは子供が生まれて、しばらく経ってからのこと。

当時住んでいたのは千葉県の旭という町で、ここは東日本大震災による甚大な被害が報じられて、多くの人に知られるようになった。
津波の被害を受けるだけあって、九十九里の海は近かったけれど、この海岸は潮の流れがとても速い。
沖には一定の間隔で、防波用のブロックが積んであるけれど、ブロックの内側ですら潮の流れが速くて海に入れない。
時々車に積んだスピーカーから、聞こえてくる声は、誰かが溺れて流されているという緊急の知らせだった。
千本松原の嫌な記憶もあって、子供に海水浴をさせるためには、より安全な鴨川付近まででかけて行った。

久々に自分も海に入ってはみたけれど、海水とはこんなに冷たいものだったか。
子供は水中メガネと浮輪をつけて、海の中の風景に夢中になってあがってこない。浅い海の底は藻の緑の中に、小さな魚を見るような当たり前のものだけど、初めて見る海の中は新鮮だったのだろう。

身体が冷え切って、早々に引き上げた私は、海の家でポカリスウェットを飲んだ。当時、発売したばかりのポカリスウェットは、最先端の健康飲料水だった。
ただ、海水浴に限らず、千葉にはアスレチックや大小様々なプール、牧場もあって子供の遊び場にはことかかない。ディズニーランドもできたばかり。

子供が遊ぶ相手は、親よりも友達の方が楽しいのは当たり前で、海水浴も年に1回の行事で、やがて終わってしまった。

御宿

どこの海水浴場も、一時は大いに賑わったけど、次第に客足が遠のくようになって、かつての静かな海が戻ってきた。
そう言えばスキー人口も全盛期に比べると、ずいぶん減った。

それでも数十年が経って、今度は孫の海水浴に同行することになった。場所は童謡「月の沙漠」の舞台として有名な房総の御宿。

作詞家の加藤まさをが、結核の療養のために、毎年訪れていたのがこの御宿。加藤自身は一度も海外に行ったことがないけれど、御宿の砂浜を前に、アラビアの情景を想いながら書いたのがこの歌だった。大正時代の童謡である。

とにかく海水浴の主役は子供から孫に移って、それは自分が初めて海を体験した頃と、似たような年齢だった。
その月の砂漠を歩いてみると、焼けた砂がものすごく熱くて、千本松原の焼けた丸石を思い出す。
子供の遊びとは単純なもので、波がくる度に逃げて、追って、ひっくり返るだけ。それでも飽きずに繰り返す。
楽しそうだけれど、こうして無心に遊べるのは、いつまでだろう。数年も経てば、学校の規則や、社会の制約の中で、窮屈な生活を強いられることになるだろう。

同じような年代で海水浴をしながら、三世代が交代をして、自分は70代になった。
これから生きる者と、これまで生きた者。自分は体力も衰えて、そろそろ窮屈な暮らしに終止符を打ちたいと願う。

あすはあす
今日は今日
今日一日は
今日で完結する

最近はこう思って暮らしているのだけれど、なかなか奔放に過ごすのは難しい。

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