自由が丘・昭和から令和へ

銀座・広小路


繁華街といえば銀座、上野広小路。日本中にある地名で、もちろん自由が丘にも広小路通り、自由が丘銀座があった。
昭和30年代、我が家の前はつばき通りと呼ばれていた。同じ通りにある大島屋という料亭が繁盛していた頃で、大島椿の名を借りたものだと思う。他にもすずかけ通り、からたち通りなどという植物の名前があって、当時としては斬新な命名だったのではないか。
ちょっと古典的な楽天地、よみせ通り、美観街もあって、この中でもうなぎのほさかや、老舗の金田がある美観街だけが今もその名を残している。
我がつばき通りは、この地域の広小路会の発展とともに、いつしか広小路通りと呼ばれるようになった。

その自由が丘にはファッションブティックが多くあって、当時の重鎮たちはちょっとお洒落なイメージを作りたかったのか、通りの名前がカタカナになった。

我が広小路通りは、「ひろ」を残したまま、ハワイの「ヒロ」をイメージしたもので、ヒロストリートに変わった。街灯のプレート看板には誇らしくHiro.St と記されて、長らくこの看板に親しんできたけれど、誰が気づいたのかスペルが間違っていて、ある日の夜、Hiro.Stは一斉にHilo.St に代わっていた。
この半世紀の間につばき通りは広小路通り、Hiro.St からHilo.Stへと変わっていった。

つばき通りと呼ばれていた頃、駅から我が家に向かって歩くと、まずはナボナの亀谷万年堂。かき氷や大学芋を目の前で揚げる甘味のもりや、古物商、電気屋があった。酒屋の中では勤め帰りのサラリーマンが、裂きイカを肴にコップ酒を飲むものだから、夕方になると周りには酒の匂いが漂っていた。
銭湯、魚屋、八百屋に乾物屋、古書店、何でもあった。
当たり前の商店街だったけど、昭和40年「窓際のトットちゃん」で有名なトモエ学園の跡地に、大丸スーパーのピーコックができた頃から、商店がポツリポツリと閉じるようになった。

続いてローソンができて、とうきゅう自由が丘店ができて、セブンイレブン、ファミリーマート、食品館あおばについで、高級スーパーと言われる成城。
令和5年の10月には、ピーコックの全面的な建て替えが完成して、その名も「自由が丘デュ・アオーネ」。
そういえば「有楽町で会いましょう」なんていうヒット曲があったっけ。


スーパーには何でも揃ってそれは便利だけど、生鮮品は肉も魚もパックに入って、よほどの目利きでないと品の良し悪しはわからない。魚は目が澄んでいれば新鮮と聞くけれど、切り身になった魚に目はないのだから。
どこのスーパーも、さすがに昨日切った刺身は置いていないだろうけれど、野菜や果物の仕入れはいつのものかわからない。家に帰って玉ねぎを切ると中が黒ずんでいたり、一皮剥くとカサカサに乾いたニンニクを見つけて腹が立つ。
それでは値段が高ければよいか、高級スーパーならよいかと思って試したこともあるけれど、高ければ新鮮ということでもない。

できたばかりのスーパーに入ってみれば、どこに何があるのかわからない。テーブル胡椒の置き場を店員に聞いたら、「ご案内します」と言って、わざわざ胡椒の前まで連れて行ってくれた。

こんなことでもあればともかく、最近は支払いもセルフレジになってしまって、店に入ってから出るまで一言も口をきかないことがある。
「余計な話をせずに買い物がしたい」、「急いで買い物を済ませたい」という人には、それもいいかもしれない。でも、高齢者の一人暮らしが多い昨今、会話のできるロボットでもおいて、雑談でもしながら店内を案内させてはどうかと思う。

こうして自由が丘から個人商店が消えて、スーパーとコンビニは嫌に増えた。コンビニはともかく、多くのスーパー間で、値段の開きはどれくらいあるか。

エッセイとは机に向かっていれば書けると思っている人がいるかもしれないけれど、それは違います。蕎麦について考えたときは、蕎麦屋を何軒か回ったし、フレンチについて考えたときは結構な出費だった。
SBテーブル胡椒の値段を調べるためには、お金はかからなくても、何店舗か回らなければならない。その結果は以下の通り。

SBテーブル胡椒20gの税抜き価格はスーパーによって、158円から198円とずいぶん開きがある。どこがいくらとも言いませんが、知りたい方は個人的にお問い合わせください。中でも高級とされるスーパーにいたってはに、庶民的なSB胡椒は置いてありませんでした。
コンビニは同じようなもので、197-198円。こうして見ると当たり前のものでも、ずいぶん値段が違います。ただし、胡椒の値段が必ずしも肉や野菜の値段と相関するか、それはわかりません。

今、実際のところ自由が丘にはかつて見たような魚屋も八百屋もない。残っているのは隣町の九品仏で、魚屋の店は昔のまま、ゴム紐の下には小銭の入った籠がぶら下がっている。
冷蔵のショーケースに、美味しそうな鯵を見つけたけれど、鯵はもう少し時期を待つと脂がのって美味しくなるとのこと。親切な助言はありがたいけれど、こんなことで商売は成り立つのだろうか。

肉屋に行って今日はカレーが作りたいと言うと、豚か牛か。豚ならば角切りがよかろうと行って、大きな塊から切り分けてくれた。
八百屋にいたっては、大根とショウガと今美味しい果物が欲しいと言うだけでよい。専門店は果物の旬を教えてくれて、今買うとよいものがでてくる。

こんな買い物には日常の暮らしがある。若者、お洒落、雑貨にスウィーツの街にも、まだまだ昭和は残っているのです。

そして、この街には渋谷や二子玉川のような高層ビルがない。高くてもせいぜい9階か10階で、その訳は「自由が丘憲章」なるものにある。

ずいぶん古い話だけど、そこに記されていることは、巨大なビルはなるべく避けて、個性的な街を志すこと。具体的には大型店と専門店の住み分けをすること、商店と住宅のバランスを保つことで、古き良き街を根こそぎ壊してしまわないことを目的とする。
そのせいか、自由が丘は若者は多いけど、高齢者も多く見かける街で、先人たちの想いが残るのです。