老いの達人

出立

義父は皮膚科の医師である。長年尾道で開業医をしていたが、80を越えて今年はやめる、来年はやめると言いながら数年が経ち、5月8日、半世紀の間続けた医院を閉じた。最後の診察日には3人の患者が訪れた。

義父が尾道を出立したのは、翌9日のことである。小さな鞄一つで我が家にやってきた。
「いつまでおるかわからん。おいてもらえる間はおるで」
来るとは聞いてはいたが、どうやって迎えればよいか、考えてもいなかった。とにかく以前、長女が暮らしていた空部屋を整理して、居場所をこしらえてみると、荷物もないのでいやに簡単に納まってしまった。

義父の行動範囲は狭い。ほとんど自室とトイレ、洗面、それに居間の往復に限られるが、それでも部屋の位置関係が覚えられない。88才にして暮らしを変えるとは、こういうことか。
近くの寺まで散歩に同行すると
 「坂道はどうもいけん」
こう言いながら一時間も歩いたが、息もあがらない。それでも、いやに段差を怖がるので、眼鏡を見ると枠が歪んで斜めになっている。新しく眼鏡の処方をしたついでに、眼底を覗いてみると視神経が白っぽい。
 「緑内障と言われたことはないですか?」
 「こないだ見てもろた時には、右は中心がいけんけど、左はなんともなかったで」
 「こないだって、いつですか」
 「開業して少しじゃから50の頃よ」
 「それは40年も前じゃないですか」

右眼はほぼ失明、左もひと目でわかる緑内障で、下半分は見えていない。段差を怖がるわけである。眼圧も驚くほど高くて、今までよくもったものだと思う。その日の義父は少しふさぎ込んで夕食も進まない様子。夜は早々に床についてしまった。
 翌朝は早くから自室で起きている気配がするが、居間にはやってこない。気になって様子を窺おうとすると、妻は放っておけばよいと言う。たっぷり時間をかけて体操をして、洗面と髪の手入れ、そしてきちんと洋服を着て、居間にやってくるまでに2時間がかかる。

朝食はトマトジュース、味噌汁に牛乳で水分を補給した後に、バナナを1本食べる。緑内障は気になっているのか、忘れてしまったのか。それが済むとお菓子を食べて抹茶を飲む。この朝食の形態はもう30年も続いている。

  

この日も午前中は家の周りを散策。妻は日々の散歩に付き合って、犬を飼い始めたようだと言う。午後には姿が見えないと思えば、自室で眠っている。確かに我が家に犬がいた頃は、こんな生活だった。

東京見物

十分に身体も休んだようで、夕方からは横浜にでかけて中華街を見物。ぶらりと入った広東料理店では、いたって普通の料理がでたが
 「わしゃこんな美味しい中華は食うたことがないで。こんなものを食うとったら尾道に帰れんのう」
 晩酌はビール1杯が限界だが、それを飲んで元気を取り戻したか、今度は東京見物に行きたいと言う。
何カ所か候補をあげてみたが
 「浜の離宮はもう行った。明治神宮は大きな神社じゃろ。六本木は人が多くていかん」
 それでもレトロな観光名所ほど穴場のようで、二重橋も西郷さんも見たことがなかった。

たまたまハープのチケットが2枚あって、コンサートは夜だと言うのに義父と妻は朝からでかけて行った。二重橋を見て、神田のやぶ蕎麦で天せいろを食べた。西郷さんの銅像を見物して、夕食は精養軒のステーキ。そして東京文化会館へ。夜遅くに疲れきって帰ってきたのは妻の方だった。
 「ハープはよかったで。あんな音色は初めてじゃ」
こう言うが、妻に聞けば義父は最初ら居眠りをしていた。

午前中は散歩の日々。散歩に飽きると、おにぎりを持って再び上野へ。3日前にきたはずの上野を覚えていない。動物園を見物、鈴本で落語を聞いて、夕方は国立博物館で薬師寺展。夕食のもんじゃ焼きも初めてだった。

数日点眼薬を続けていたが、眼圧が下がり切らず、東京見物の合間をぬって、レーザー治療をすると、再び緑内障を思い出して、
 「わしゃもう見えんようになるのか」
 そんなことはないと言ってみたものの翌日は休息。家にいればいたで、長年の夢があった。
 「さつま汁を食うてみたい」
 さつま汁とは、チヌという魚を焼いて、身をほぐしてすり鉢でする。みそとゴマを合わせて焼いた後、氷水でのばして、これを暖かいご飯にかけたものである。

チヌとは黒鯛の小さいものらしい。料理音痴の義父が、よく作り方を覚えているものだと思う。私には宮崎の冷汁のように聞こえるが、いずれにしても九州の南の方の郷土食なのだろう。晩酌の後がよいかと思ったら
 「さつま汁を食うときは、さつま汁だけでないといかん」
何か、よほどの思い入れがあるに違いない。
言われるままに供してみれば、
 「旨いで。ようできとる」

日々の散歩は駒沢公園、九品仏、東京工大の庭、自由が丘南口のフェスティバル。東京見物は自然教育園に東京庭園美術館、意味もなく東京湾の横断道路を走って、海ぼたるにも行った。どうでもよくなってくると、スーパーの買い物にもでかけた。
度々尾道にいる義母から電話があるが、
 「わしゃー目の治療じゃけん、まだ帰れん」
寿司を食べて、てんぷらを食べて、
 「こんな旨いものは食うたことがないで」
近くのラーメン屋にでかければ、
 「こんな旨いラーメンは初めて食うたで」
 そんなわけはない。尾道と言えば、名だたるラーメン屋で有名な町である。

何を食べても今までで一番と言うが、これはお世辞か、数十年振りに実の娘と暮らした嬉しさか、あるいは本当にそう思っているのかもしれない。そうだとすれば老後の人生の達人にも見えてくる。

帰宅

思いつくところは全て行った。思いつくものは全て口にした。
 「わしゃ幸せやで。尾道広しといえど、わしほど幸せな者はおらん」
尾道が広いとは思わないが、我が家で暮らした数十日、こんな言葉を聞き続けた。そして緑内障の治療も一段落したところで、6月末の日曜日、義兄が迎えにやってきた。

その日の昼食はビールも飲んだし、普段は飲めないワインも飲んだ。こうして別れを惜しんだ義父は、月からではなかったけれど、尾道からの使者に連れられて帰っていった。

厄介だったはずの義父がいなくなって、もとの生活に戻ったが、なんだか落ち着かない。そう言えば犬が死んだ時も、こんな日々を暮らしたことがある。
1本だけ残ったバナナが電話の横で、黒くなり始めている。ぽっかり穴のあいてしまった心境になって、妻が電話をすると、義父はこう言った。

「大丈夫、すぐ慣れるじゃろ」

Follow me!