仮屋村のてる婆さん
嫁に来て
我が家はもともと若狭の仮屋村にあった。小浜から10キロほど離れた山村で、てる婆さんは隣村の熊川から嫁にきた。馬に乗って。
婆さんはここで9人の子を設けて、その長男が私の父。しかし当時は満足に育たない子供が多くて、成人をしたのは5人だけ。そのうち2人の叔父は、若くして亡くなったので覚えていない。
人生50年と言われていた。てる婆さんの夫、つまり私の祖父も早くに他界をして、もちろん私はまだこの世にいなかった。
てる婆さんは小学校しか出なかったけど、女手一つで見事に5人の子供を育てあげた。山を売って、田畑を売って子供たちを東京や京都に送り出した。
男には職をもたせ、父は眼科医になった。女はいいところに嫁がせて、この辺までは思った通りにいったけど、終戦とともに農地は有無を言わさず政府に買い上げられた。その代価は一つの田んぼが豆一升。婆さんは土一升に豆一升と言って怒っていた。
村での一人暮らしは楽ではなかったけれど、婆さんは子供たちを都会に出した後も、仮屋村を離れなかった。大昔の百姓屋にはガスも水道もない。少し足を引きずりながら不自由な生活を続けていた。
ただ、冬の三か月だけは、村が雪に埋もれてしまうので東京にやって来た。
婆さんの土産
当時我が家は渋谷の広尾にあり、大きな敷地内に2軒の家が建って、親戚の3家族が同居。兄弟と従兄弟を合わせると、9人の子供が暮す大所帯であった。
婆さんはその子供たちに、持てるだけの土産を持ってきた。特大のカバンを両手に持って、その中には若狭名物の焼き鯖、へしこ。半年かけて準備をした干し柿に、自家製茄子のからし漬け。何より重いのが餅。
これをもっても、平らな地面ならば何とか歩くことができる。でも、階段の上り下りをするときには、まずカバンを一つ運んで、そこから引き返してもう一つのカバンを運ぶ。
敦賀と米原と東京駅と、都合3回の乗り換えがあるので、その都度2回ずつ階段を上って下りた。
この土産物が喜ばれる間はよかった。だんだん暮らしが豊かになれば、子供たちの嗜好も変わって干し柿は売れ残り、豆餅にいたってはカビが生えて、どう処分をしたのだろう。
それでもてる婆さんは毎年、行商の格好をして現れた。3か月の間東京に滞在をして、時々親戚を訪ねて、春になると空のカバンをもって仮屋村に帰っていった。
やがて夏がくると私と従兄弟たちは毎年大挙して、てる婆さんがいる若狭を訪れた。東京駅を午後10時10分発の夜行列車、急行能登号に乗って、村に着くのは翌日の昼ころ。ガスも水道もない不便な暮らしは、まるでキャンプか冒険のよう。
風呂に入るときには、つるべで井戸水を汲みあげ、湯を沸かすのもご飯を炊くのも、薪を燃やしてあたりは煙だらけ。煙を出さずに火を焚くのがいい嫁と言われていた。
朝一番のバスで田烏港に行って海水浴。帰りの麦わら帽子の中は紫雲丹とサザエが一杯。
これを抱えて、最終のバスに乗り遅れた時には、ダンプカーの運転手が家の近くまで送ってくれた。婆さんはお礼をすると言いながら、足を引きずって家を飛び出したけど、トラックはとっくに行ってしまった。
べっぴん
婆さんは夕食後に縁側で涼みながら、小声で自慢話をしたことがある。
それは熊川村で一番のべっぴんだったこと。肥えているほどええおなごで、17歳では17貫、18歳では18貫あった。その後も1年に1貫ずつ太って、21貫までいった。
身長は150cmくらいだったろうから、21貫と言えば80kg近くにもなる。それくらいべっぴんだった。そう聞いた。
日も暮れて隣村から帰るときには、山からオオカミが下りてきて、婆さんに少し遅れてついてくる。べっぴんのおなごが1人で歩いているので、オオカミは婆さんを無事に送り届けるためについてきたのである。
家に着いて明りをつけると、それを確かめたオオカミは、くるりと向きを変えて山に帰って行った。
てる婆さんが歩けなくなったと聞いて、迎えに行ったのは大学生の時だった。車で何時間かかったことだろう。
急な病ではなくて、自慢の体重を支え切れなくなった膝が痛んで歩けない。食べ物は少し持って行ったけれど、一両日中に荷物をまとめて、東京に連れ帰ることはできなかった。
結局、部屋の整理が終わるまで、婆さんと枕を並べて寝ることになる。薄くなった髪には無用のものに見えたけど、相変わらずの箱枕。厠までは遠くて歩けないので、夜中には枕元の石油缶に勢いよく小便をする音が響いた。
暖房は囲炉裏がある。ただ、薪がないので朽ちかけた縁側の床をはがして、火にくべた。お隣のふみちゃんが、漬物やちくわの差し入れをしてくれて、何とか食いつなぎながら、荷物の整理を続けた。
別れ
大きなカバン二つに荷造りを済ませたのは数日後。ようやく婆さんを車に乗せて若狭を出発した。 熊川から嫁に来て、てる婆さんが仮屋村で過ごした最後の日だった。