こころの7:自分探し
自分とは仁義
自分探しと言いながら、戦渦のイラクに出かけて殺された青年がいた。おそらく目的を達する前に死んでしまったか、あるいは直前にこれが自分だと思ったかもしれない。近しい人はどんな思いをしたことか。自分探しが流行り始めたのは最近のことで、中学の教材にまでこの言葉が登場するようになった。中学生と言えば半世紀前には集団就職をして、上野駅に降り立った世代である。当時は夢と希望の世代と言われたものが、今や自分探しである。
それは、この半世紀に社会の秩序が激変したから。とくに都会にいると、コンクリートとあふれかえる情報に囲まれて、地に足つけた実生活がない。日常からも自然からも遠ざかって、モニターに映し出される仮想空間に仮想通貨をもったところで、生活がなければ心地のよい居場所もない。
昨年マイナンバーカードを作って、思ったより老けた顔写真を見ながら、自分とはこれだけかと思った。こんな問題に最も簡潔な解釈を与えてくれるのがフーテンの寅さんで、その答えは以下のもの。
「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。
帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎、
人呼んでフーテンの寅と発します。
わたくし、不思議な縁もちまして、生まれ故郷にわらじをぬぎました。
あんたさんと御同様、東京の空の下、ネオンきらめき、
ジャンズ高鳴る花の都に、仮の住まい まかりあります。
故あって、わたくし、親分子分持ちません。」
この仁義が寅さんの全てで、探さなくても自分とはこういうものである。そして今後、寅さんがどう生きるかと言えば
「不思議な縁持ちまして、たったひとりの妹の
ために粉骨砕身、売に励もうと思っております」
これから
自分の素性がわかっていて、今の暮らしがあればそれでよい。ここが出発点で、その先はご縁と決断次第。
親の暮らしを見て、後を継ぐのもよし。その反対をいくもよし。たまたま出会った出来事が人生を変えるかもしれない。病院にいったときに看護師の仕事に感動すれば、そこを目指すこともできる。
先日の深夜放送に若村麻由美さんという女優さんが出演して、今の職業についた経緯を語っていた。それは高校生の時で、たまたま渋谷の映画館で見たハロルドとモードという映画に感動して、舞台づくりを目指したとのこと。
ただし、これは希望と適性がかなりマッチした比較的稀なケースである。野球選手になりたいと思っても、なれるかどうかはまた別の問題で、頑張ればイチローや大谷になれると思ってはいけない。
大概は偏差値に見合った大学に行って、就職の際には会社も学生も、双方常識的な範囲で納得して決まる。
子供に将来の夢を聞くと、昔は野球選手や医師という答えが多かったけれど、昨年は会社員が一位になった。世情の戦争やコロナの影響もあっただろうが、これは自分探しから一歩後退だろうか。
それでも進路が見つからなければ、何かのきっかけでエイヤッと決めるしかないのである。
結婚だって同じこと。この場合は自分探しではなく、相手探しだけど、大概は限られた時間と限られた選択肢の中で、エイヤッと決める。そしてほとんどの場合、後悔をするのである。
そもそも自分探しと言っても自分自身は変わっていく。身体も心も変わり続ける。その場その場でいろいろな顔を見せて、変わり続ける蜃気楼。
当たり前になって気づかないかもしれないが、整ったインフラの中で快適な生活ができるのは、社会を構成する共同体の一員であるから。何もしていないうちから「自分」だの「個性」だの、言ってみたところで、それはずいぶん贅沢な欲求で、生物の本質からは少しずれているのである。